私が生まれた1939年(昭和14年)頃は、家や家財道具はもちろんのこと、何時家族をおいて、命さえ失うかもわからない混沌とした時代だったそうです。
その不安の中で、父は一人娘の私に将来何を残せるだろうと、真剣に考えたあげく、私の成長記録を写真に撮ろう!と名案がひらめいたそうです。
父は、私を撮る為なけなしの財布を叩いて、当時は高価だったカメラを買ったそうです。
おかげで私の赤ちゃんの頃から成人になるまでの写真が、驚くほど沢山残っています。
終戦後の混乱の時期でしたが、商売の傍ら父の写真熱は上がり、困惑する私など無視して学校や修学旅行にまで付いてきて撮影するほどでした。
家に大きな暗室を作ったり写真クラブまで設立し、どこへ行くにも私を一緒に連れて行きました。
ベビーパールというカメラを10歳の誕生日にプレゼントしてくれた時の嬉しさは、今も心に鮮明に残っています。
そのおかげで、写されて居るばかりではなく写真に興味が湧いてきた私は、見よう見まねで写真を撮る様になりました。
時には、こっそり父のカメラを拝借して写したりもしていました。
中学3年生で赤城山写真コンクールの最高賞を受賞した私は、父から現像や引き伸ばしなどの指導もしてもらうようになりました。
高校時代、全国学生写真コンテスト特選など次々と入賞すると、父は東京の写真展や撮影の旅をたくさん計画してくれました。
そのおかげで色々な所で写真を撮ることができ、生涯忘れられない素晴らしい経験を沢山得ることが出来たのです。
東京で開催されたエドワード・スタイケンの手がけた「ザ・ファミリー・オブ・マン」写真展の中で写真家集団 マグナム・フォトのロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真の前で衝撃のあまり動けなくなったことを思い出します。
私も人の心に感動を与えるような素晴らしい写真を撮りたい!そして将来は写真家になろう!とこの時、強く誓い、次第に夢が膨らんでいきました。
カメラ雑誌で目にする、木村伊兵衛の「下町」や土門拳の「ヒロシマ」などの写真からも強い刺激を受けました。
高校時代は先生方の温かいご理解に恵まれ、沢山の写真を写す機会を得ることができ、夢の実現に一歩一歩近づいていたのもつかの間、高校2年生の夏、父が突然の病で倒れ、それに連なり、家業の織物販売業は倒産に追いやられました。
病弱になった父と看病に明け暮れる母を置いては地元・群馬県桐生市を離れることが出来ず、私は東京へ進学し写真家になる夢を断念、手に職を付け女手ひとつでも両親を養おうと思い、高校卒業後は市内の洋裁学校へ通いました。
その頃、病弱な父は家に残るわずかな財産を売って生計を立てていました。
私には未来が見えず、とても不安な時期でした。
そんな時、救世主の様に写真好きの真面目な警察官の男性が私の前に現れたのです。
少しずつ、私たちは平凡な結婚の夢を持ち始めました。
しかし、私たちの結婚に父親からの賛成は得られず、代わりに父から結婚への絶対条件が出されました。
彼が警察官をやめ、二人で写真店を開業する事でした。
彼は考え抜いたあげく同意、昭和35年、私が20歳の時に結婚、桐生市内に4坪ほどの小さなお店「カメラ・アサヒ堂」を開きました。
しかし、開業してみたものの所詮二人とも素人上がりでしたから、趣味と商売との違いに悩み苦しみ、再発を繰り返す父の病と合わせての格闘が続き、無我夢中の毎日でした。
写真の好きなお客さまとの出逢いと家族の愛が私の喜びと幸せなのだ、と心に言い聞かせながら、涙をのんで耐えた日もありました。
確かにお客様と写真の話をしていると、自然と笑顔になっている自分がそこにいました。
二人のかわいい娘にも恵まれ、父が私を撮ってくれた様に、写真好きの私達夫婦は二人の愛娘の写真を撮り続け、忙しくて幸せな年月があっという間に過ぎて行きました。
家族全員助け合い、商売も繁盛、長女は私の意思を継いでくれた様に日大芸術学部へ入学故三木淳氏に師事、次女も高校生になり、やっと軌道にのったかと思った時、父が他界。
私にとって父の存在はあまりにも大きく、ぽっかりと心に穴が空いてしまった様でした。
それから、二人の娘の結婚、母の病、次女夫婦の海外移住、孫の出産などに追われているうちに、おしどり夫婦と呼ばれながら35年間連れ添った私達夫婦の間にも、少しづつ溝ができてしまったのでしょう、離婚という結果になってしまいました。
80歳を越えた認知症の母との二人暮らし、入退院の繰り返し、徘徊や骨折などの介護に明け暮れているそんな矢先に、長女家族の海外移住が決まり、兄弟のように信頼し任せていた社員の突然の独立など、人の世の無情を痛いほど知らされ呆然としてしまいました。
私は予期せぬ余りの苦難に、一時は死を選ぼうかとも考えた時もありましたが、痴ほうが進み、私の存在さえも認識出来なくなった母の、私の心の痛みがわかっているかのようなやさしい笑顔としっかりと握りしめる手のぬくもりに何度も励まされました。
そんな苦しみの中、平成11年11月30日、私の60歳の誕生日、父の17回忌を終えて遺品を整理していた時の事です。
遺品の中に、私の幼い頃に父が東京に出かけると必ず買ってきてくれた懐かしい泉屋のクッキーの缶を発見しました。
開けてみると、その中には私が昭和30年代に写したネガフィルムが、びっしりと詰まっていました。
私が写真家になる夢を諦めきれず商売に身が入っていないのを見抜いた父に、私の撮った写真は全て捨ててしまう!と持ち去られ、もう焼き捨てられたとばかり思っていたネガフィルムでした。
私が学生の頃、私の隣で父が個々のネガカバーに達筆な文字で撮影年月日などのデーターを克明に記してくれた、あの懐かしい日々を思い出し、大切に保存してくれていた父の深い愛情がひしひしと伝わってきました。
写真家になることを夢見て輝いていた青春時代の写真が、40年ぶりに私の手元に戻ってきたのです。
夢のような再会でした。
一本一本のネガを見ながら、嬉しくて懐かしくて涙が止まりませんでした。
60歳の還暦を迎えた日、難問題を背負い、これからの人生のありかたを必死に考えていた時期でしたから、父が心配のあまりに現れ、クッキーの缶を誕生日の贈り物として、棚の奥にそっと隠して消えていったかのようにさえ思えました。
「利江がんばれ!もう夢を追いかけていいんだよ!自由に生きろ!」と父の声が聞こえたようで、体中が熱くなるほどのエネルギーが湧き上がり、勇気が出るのを感じたのを覚えています。
それから、再会できたネガの写真の一部で、周囲の温かい応援のもとに還暦記念写真展「あの日あの時」を地元の桐生市民文化会館にて念願の個展を開くことができました。
初の個展、夢の実現への 第一歩 でした。
南半球から二人の娘達家族も駆け付け、展示された写真の中の人たちとの再会、昭和30年を懐かしむ思い出話で、写真展会場は笑顔と幸せで満ちあふれました。
60歳からの再出発、夢と勇気を沢山の人たちが運んできてくれました。
思いがけない反響を呼び、それを皮切りに夢のような歳月が経ちました。
自動ドアが開く様に、銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、テレビ・ラジオ出演、NHKをはじめ群馬県立歴史博物館、栃木市、水戸市、足尾、米国ジョージア州など次々と、各地で写真展を開催して頂きました。
どこの会場でも、温かい心に接することができました。
懐かしさと思い出話に花を咲かせる方たちで賑わい、今忘れかけ失いかけた大切なものを私の写真の中から捜し求めているのを感じました。
母は94歳で他界、利江68歳からの一人暮らしが始まりました。
同じ時期、昭和30年代を舞台にした映画「3丁目の夕日」の続編の上演が決まり、小学館の月刊誌ビックコミック特選「3丁目の夕日」に、「齋藤利江三丁目写真館」として私の撮った昭和30年代の写真にエッセイをつけての連載を依頼されました。
毎月、昭和30年代の思い出と感動の日々を思い起こしながら、わくわくドキドキ、心ときめかせながらの執筆の時間も楽しく、明るい毎日が訪れました。
2009年、私は70歳の古希を迎え、カメラを通して味わう感動と、益々ふくらむ夢や希望に胸弾ませています。
私は写真と共に「今が青春!これからも青春!」なのです。
Started taking photos when she was 12 following her father who was the
leader of the local photography club. She was an only child and her
father took her everywhere including photo trips and drinking with his
friends.