作者について

プロフィール

昭和14年 群馬県桐生市に生まれる。

Toshie Saito Photographer

Toshie Saito Photographer

昭和28年 市立西中学校3年、県主催「赤城山写真コンテスト」最優秀賞を受賞。
昭和28年 毎日新聞社主催「全国学生写真コンクール」特選をはじめ毎年受賞。
昭和33年 カメラ毎日「学生の部」年度賞受賞ほか、高校時代多数コンテスト受賞。
昭和33年 県立桐生女子高校卒業、父の病で家業倒き進学と写真家への夢を断念。
昭和35年 桐生市にカメラのアサヒ堂を創設、「商売に専念せよ」と父に撮影したネガを処分される。
昭和38年 長女を写し主婦の友社主催「すてきな赤ちゃん」写真コンテストで最高賞受賞。以来、写真を撮り続けながら家業に専念。
平成 3年 「母娘写真展NZからこんにちは」群馬ニュージーランド協会企画展・前橋市県民会館
平成10年 「日本初の女流写真家 島隆」没後百年記念写真展を企画し開催・桐生市郷土資料展示ホール
平成11年 60歳の誕生日に、父の遺品より処分されたと思っていた「利江のネガ」を発見。それを機に、封印を解かれたネガから新たな生き方を決意、ニコンサロンへ応募。
平成12年 還暦記念に写真個展「あの日 あの時」開催・桐生市市民文化会館
平成12年11月NHK出演放映された個展「わらべうた」開催・銀座ニコンサロン
平成13年6月 アンコール展「わらべうた」開催・大阪ニコンサロン
平成13年7月 第16回・国民文化祭・ぐんま2001の参加事業「今甦るなつかしの時」桐生市企画展・桐生市郷土資料展示ホール
平成15年7・8月 第75回博物館企画展「こころのアルバム」・群馬県立歴史博物館
平成15年11月 齋藤利江「足尾線の詩」常設展示コーナー開設・有形文化財・みどり市旧花輪小記念館
平成16年9月~3月「昭和の時代」企画写真展・桐生明治館
平成17年12月「日本の子ども60年」日本写真家協会(JPS)企画展148名の中に選ばれ2作品展示・東京都写真美術館 名古屋、京都、横浜
平成18年6月、7月 未来プロジェクト企画展「昭和のこどもたち」・栃木市太田家見世蔵
平成18年8月京成企画展「懐かしの昭和30年」・水戸市京成百貨店
平成19年2月~3月 企画展「昭和30年代の女性の仕事とくらし」・東京女性と仕事の未来館
平成19年10月~12月「平和と笑顔」企画展・米国ジョージア州・コロンバス州立大学美術館
平成19年 9月~21年12月 小学館発行人気コミック誌「三丁目の夕日」に写真コラムを連載
平成22年 特別企画展「齋藤利江の三丁目の写真館」-あの日あの時あの笑顔―小学館協力
8月23日~8月28日「その1昭和30年代のこどもたち」・銀座ギャラリーアートグラフ
9月21日~10月2日「その2昭和30年代のくらし」・銀座ギャラリーアートグラフ
平成22年4月~11月まで「わたらせ渓谷鉄道今昔展」 企画展・みどり市旧花輪小記念館
平成23年3月〜5月「30年代写真館」・みどり市大間々博物館コノドント館
平成24年10月 みどり市大間々博物館 「足尾線ノスタルジー SLのある風景」
平成24年10月 銀座デザインフォーラムシンポジウム トークショー
平成24年11月 ニコンサロン仙台 写真展
平成25年2月、3月 ニュージーランド国オークランド、クライストチャーチにて「60枚の笑顔」写真展
平成26年12月 銀座ギャラリー アートグラフ 親子展「ニュージーランド田舎暮らし」
平成26年12月 ニコンサロン新宿 写真展

平成22年1月より 「月イチ三丁目の夕日」に写真コラムを連載
写真集「足尾線の詩」(赤城出版)「あの日あの時あの笑顔(清流出版)
「月イチ三丁目の夕日」(小学館)に写真コラムを現在連載中

公益社団法人日本写真協会会員(PSJ)
一般社団法人日本写真作家協会会員(JPS)

写真との出逢い

私が生まれた1939年(昭和14年)頃は、家や家財道具はもちろんのこと、何時家族をおいて、命さえ失うかもわからない混沌とした時代だったそうです。

その不安の中で、父は一人娘の私に将来何を残せるだろうと、真剣に考えたあげく、私の成長記録を写真に撮ろう!と名案がひらめいたそうです。

父は、私を撮る為なけなしの財布を叩いて、当時は高価だったカメラを買ったそうです。

おかげで私の赤ちゃんの頃から成人になるまでの写真が、驚くほど沢山残っています。

終戦後の混乱の時期でしたが、商売の傍ら父の写真熱は上がり、困惑する私など無視して学校や修学旅行にまで付いてきて撮影するほどでした。

家に大きな暗室を作ったり写真クラブまで設立し、どこへ行くにも私を一緒に連れて行きました。

ベビーパールというカメラを10歳の誕生日にプレゼントしてくれた時の嬉しさは、今も心に鮮明に残っています。

そのおかげで、写されて居るばかりではなく写真に興味が湧いてきた私は、見よう見まねで写真を撮る様になりました。

時には、こっそり父のカメラを拝借して写したりもしていました。

中学3年生で赤城山写真コンクールの最高賞を受賞した私は、父から現像や引き伸ばしなどの指導もしてもらうようになりました。

高校時代、全国学生写真コンテスト特選など次々と入賞すると、父は東京の写真展や撮影の旅をたくさん計画してくれました。

そのおかげで色々な所で写真を撮ることができ、生涯忘れられない素晴らしい経験を沢山得ることが出来たのです。

東京で開催されたエドワード・スタイケンの手がけた「ザ・ファミリー・オブ・マン」写真展の中で写真家集団 マグナム・フォトのロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真の前で衝撃のあまり動けなくなったことを思い出します。

私も人の心に感動を与えるような素晴らしい写真を撮りたい!そして将来は写真家になろう!とこの時、強く誓い、次第に夢が膨らんでいきました。

カメラ雑誌で目にする、木村伊兵衛の「下町」や土門拳の「ヒロシマ」などの写真からも強い刺激を受けました。

高校時代は先生方の温かいご理解に恵まれ、沢山の写真を写す機会を得ることができ、夢の実現に一歩一歩近づいていたのもつかの間、高校2年生の夏、父が突然の病で倒れ、それに連なり、家業の織物販売業は倒産に追いやられました。

病弱になった父と看病に明け暮れる母を置いては地元・群馬県桐生市を離れることが出来ず、私は東京へ進学し写真家になる夢を断念、手に職を付け女手ひとつでも両親を養おうと思い、高校卒業後は市内の洋裁学校へ通いました。

その頃、病弱な父は家に残るわずかな財産を売って生計を立てていました。

私には未来が見えず、とても不安な時期でした。

そんな時、救世主の様に写真好きの真面目な警察官の男性が私の前に現れたのです。

少しずつ、私たちは平凡な結婚の夢を持ち始めました。

しかし、私たちの結婚に父親からの賛成は得られず、代わりに父から結婚への絶対条件が出されました。

彼が警察官をやめ、二人で写真店を開業する事でした。

彼は考え抜いたあげく同意、昭和35年、私が20歳の時に結婚、桐生市内に4坪ほどの小さなお店「カメラ・アサヒ堂」を開きました。

しかし、開業してみたものの所詮二人とも素人上がりでしたから、趣味と商売との違いに悩み苦しみ、再発を繰り返す父の病と合わせての格闘が続き、無我夢中の毎日でした。

写真の好きなお客さまとの出逢いと家族の愛が私の喜びと幸せなのだ、と心に言い聞かせながら、涙をのんで耐えた日もありました。

確かにお客様と写真の話をしていると、自然と笑顔になっている自分がそこにいました。

二人のかわいい娘にも恵まれ、父が私を撮ってくれた様に、写真好きの私達夫婦は二人の愛娘の写真を撮り続け、忙しくて幸せな年月があっという間に過ぎて行きました。

家族全員助け合い、商売も繁盛、長女は私の意思を継いでくれた様に日大芸術学部へ入学故三木淳氏に師事、次女も高校生になり、やっと軌道にのったかと思った時、父が他界。

私にとって父の存在はあまりにも大きく、ぽっかりと心に穴が空いてしまった様でした。

それから、二人の娘の結婚、母の病、次女夫婦の海外移住、孫の出産などに追われているうちに、おしどり夫婦と呼ばれながら35年間連れ添った私達夫婦の間にも、少しづつ溝ができてしまったのでしょう、離婚という結果になってしまいました。

80歳を越えた認知症の母との二人暮らし、入退院の繰り返し、徘徊や骨折などの介護に明け暮れているそんな矢先に、長女家族の海外移住が決まり、兄弟のように信頼し任せていた社員の突然の独立など、人の世の無情を痛いほど知らされ呆然としてしまいました。

私は予期せぬ余りの苦難に、一時は死を選ぼうかとも考えた時もありましたが、痴ほうが進み、私の存在さえも認識出来なくなった母の、私の心の痛みがわかっているかのようなやさしい笑顔としっかりと握りしめる手のぬくもりに何度も励まされました。

そんな苦しみの中、平成11年11月30日、私の60歳の誕生日、父の17回忌を終えて遺品を整理していた時の事です。

遺品の中に、私の幼い頃に父が東京に出かけると必ず買ってきてくれた懐かしい泉屋のクッキーの缶を発見しました。

開けてみると、その中には私が昭和30年代に写したネガフィルムが、びっしりと詰まっていました。

私が写真家になる夢を諦めきれず商売に身が入っていないのを見抜いた父に、私の撮った写真は全て捨ててしまう!と持ち去られ、もう焼き捨てられたとばかり思っていたネガフィルムでした。

私が学生の頃、私の隣で父が個々のネガカバーに達筆な文字で撮影年月日などのデーターを克明に記してくれた、あの懐かしい日々を思い出し、大切に保存してくれていた父の深い愛情がひしひしと伝わってきました。

写真家になることを夢見て輝いていた青春時代の写真が、40年ぶりに私の手元に戻ってきたのです。

夢のような再会でした。

一本一本のネガを見ながら、嬉しくて懐かしくて涙が止まりませんでした。

60歳の還暦を迎えた日、難問題を背負い、これからの人生のありかたを必死に考えていた時期でしたから、父が心配のあまりに現れ、クッキーの缶を誕生日の贈り物として、棚の奥にそっと隠して消えていったかのようにさえ思えました。

「利江がんばれ!もう夢を追いかけていいんだよ!自由に生きろ!」と父の声が聞こえたようで、体中が熱くなるほどのエネルギーが湧き上がり、勇気が出るのを感じたのを覚えています。

それから、再会できたネガの写真の一部で、周囲の温かい応援のもとに還暦記念写真展「あの日あの時」を地元の桐生市民文化会館にて念願の個展を開くことができました。

初の個展、夢の実現への 第一歩 でした。

南半球から二人の娘達家族も駆け付け、展示された写真の中の人たちとの再会、昭和30年を懐かしむ思い出話で、写真展会場は笑顔と幸せで満ちあふれました。

60歳からの再出発、夢と勇気を沢山の人たちが運んできてくれました。

思いがけない反響を呼び、それを皮切りに夢のような歳月が経ちました。

自動ドアが開く様に、銀座ニコンサロン、大阪ニコンサロン、テレビ・ラジオ出演、NHKをはじめ群馬県立歴史博物館、栃木市、水戸市、足尾、米国ジョージア州など次々と、各地で写真展を開催して頂きました。

どこの会場でも、温かい心に接することができました。

懐かしさと思い出話に花を咲かせる方たちで賑わい、今忘れかけ失いかけた大切なものを私の写真の中から捜し求めているのを感じました。

母は94歳で他界、利江68歳からの一人暮らしが始まりました。

同じ時期、昭和30年代を舞台にした映画「3丁目の夕日」の続編の上演が決まり、小学館の月刊誌ビックコミック特選「3丁目の夕日」に、「齋藤利江三丁目写真館」として私の撮った昭和30年代の写真にエッセイをつけての連載を依頼されました。

毎月、昭和30年代の思い出と感動の日々を思い起こしながら、わくわくドキドキ、心ときめかせながらの執筆の時間も楽しく、明るい毎日が訪れました。

2009年、私は70歳の古希を迎え、カメラを通して味わう感動と、益々ふくらむ夢や希望に胸弾ませています。

私は写真と共に「今が青春!これからも青春!」なのです。

Born 1939 in Japan.

Toshie Saito Photographer

Toshie Saito -Photographer

A Memberm of The Photographic Society of Japan.
A Member of Japan Photographers Association.

Started taking photos when she was 12 following her father who was the leader of the local photography club. She was an only child and her father took her everywhere including photo trips and drinking with his friends.

She came across the world of ordinary lives and poor but lively happy children down town. She always wanted to have younger brothers or sisters so she was attracted by little children’s happy laughs and mischievous smiles.

She entered photo competitions when she was 14 and won the first prize beating all the adult entries including her father. Then again won the first prize in an All Japan students photo exhibition by a major newspaper. She continued wining many prizes during her school year, but her father’s business went bankrupt due to his business partner’s fraud when she was 17. Then she had to give up her dream to become a journalist to work in Tokyo. A few years later she married and her father suggested opening a camera shop.

Although it was a tiny shop, she thought this is the closest she would get to be a photographer. They had to work very hard day and night. Hundreds of prints to make and dry. Time went by and she raised 2 daughters and the business became a success. During this time she entered many competitions and won many prizes also raising her children to appreciate photography.

After her father died and her children had left home, With a heart broken she decided to divorce her husband as their values and life-styles had drifted apart. During this difficult time and with no future vision, she was doing a major clean up of her house when she found an old yellow tin- box written with the hand written words “Toshie’s photos” by her father.

When she opened the box, she was in tears to find her old photos she took when she was a teenager, which she believed that her father had burned to forget her dream. She imagined that her father put her photos securely wishing her to become a photographer. She was encouraged and uplifted by her old pictures with full of children’s happy smiles. She also realized that in the 1950’s, they didn’t have cars, TV, Cell phones and the life was harder than now, but people were lively and happy, caring for each other.

Looking at the children’s smile in her photos, she decided to show her photos to young and old people in the modern world to remind we all have children’s heart inside whenever we are, wherever we are.

Her dream to be a photographer came true and she was glad she didn’t give up on her dream.
She has had many exhibitions including Nikon Salon Ginza 2001 and Osaka in 2002. History Museum in Gunma 2003.

Her photos have been featured on TV programs and in magazines.
Her works still continued to capture everyday life’s little happiness including her 6 grand children.

Presently she re-shoots the same places that she took photos of in the 1950’s to show how much things changed.